不変のドクペと浮かぶぼく

心に残ったナニカについて、つらつらと。

大学に落ちた僕のくだらない回顧録

初めに断っておきますが、これから話すことには、誰かしらを批判したりその人のせいにしたりすることはありません。
それと、この記事はただの大学に落ちたありふれた一学生の言い訳なので、「なんだこいつ、この後に及んで言い訳してるよダッセェw」とでも思って見ていただければ幸いです。
だらだらと後悔を語っていくだけなので、あしからず。



僕は小さいころから母に「勉強しなさい」としつけられてきました。勉強の他にもピアノ、書道、サッカーなど、いろいろな習い事をさせられていました。

(「させられていた」というのは少し語弊がありますが、当時の僕としては母の言うことは絶対で、もし「嫌だ。そんなことはやりたくない。」と反抗すると、「じゃあ何がやりたいの?何が得意になりたいの?」と言われました。
そりゃあもちろん友達と遊んだりゲームをしたり、やりたいことはいくらでもありましたが、子供ながらに母の言う「やりたいこと」というのは「何かこれからのためになること」というのはわかっていました。
なので、そこに僕の本当の自由意思はなく、半強制的に「ピアノ」や「書道」を習っていたので、「させられていた」と言いました。)


そんな母だったので、当然母は僕に中学受験をさせようとしました。僕は母の期待に応えようと「やりたくもない」中学受験をするために塾へと通い始めました。
思えばこれが間違いでした。


(少し自己擁護と責任転嫁が激しい気もしますが、ご了承ください。)


自分から見ても小学校時代の僕は秀才に分類される子供だったと思います。学校のテストで90点を下回ったことはほとんどないし、クラスメイトが解けないなぞなぞやパズルはすぐに解け、図書室の本は片っ端から読んでいました。
それでいて友達が少ないわけでもなく、現に当時の友人とは今でも親しくしています。

そんな僕の間違いと言えば、やっぱり「やりたくもない」中学受験をするために「塾」へ通ったことだと思います。
塾では自分より勉強のできる子供が腐るほどいて、なにより宿題が小学校の比じゃないほど出るのです。
小さいころから「根性」のなかった僕はすぐにへこたれてしまい、勉強へと向かっていた気持ちを、いかにして「サボるか」の気持ちへと強めていきました。
その気持ちは勉強が厳しくなるにつれて大きくなり、さらに明確な目標を持った周りの塾生たちの姿勢に萎縮してしまい、どんどんやる気を失っていきました。

結果、そんなサボりまくった僕が中学校に受かるはずもなく、近所の公立学校に進学しました。
そうなると、もう一度「失敗した中学受験」の再現となります。
母は僕に「有名私立高校」に進学させたがり、僕はそれに反抗もせず、母について行きました。

(厨二病的なカッコつけもあったと思います。勉強してるやつはカッコいい、みたいな。)




結局中学受験の時と同じようにサボれるだけサボり、志望校と比べて10以上も差のある私立高校へ進学してしまいました。
この時点で両親が僕を見限らなかったことは本当に運が良かったのと、比べて両親の僕に「出世して欲しい」という気持ちが強かったこともあると思います。




さて、ここからは高校3年間のことになりますが、結果はタイトルの通りでした。やっぱり人は簡単には変われないのです。(それに甘んじてはいけないともわかっているのですが)

高校一年生のころ、誰もが「まだまだ時間がある」と思っていたでしょう。当然僕もそう思っていました。実際時間は腐るほどあったし、自分を変えるには3年という月日は十分すぎるほどだと思います。

彼女も出来て学校生活を楽しく過ごしていた僕は、特進クラスに進学したにもかかわらず相変わらずサボっていました。
簡単に言うと周りの友人が10勉強していたとして、僕はたったの2しか勉強していませんでした。

サボりサボりで3年生になった僕は自分の能力が周りと比べて酷く劣っていると理解していました。

それでも性格ゆえか、自分を大きく見せたがる僕は、周りに自身の気概と余裕さをアピールしていました。(きっとみんなわかっていたと思います。)

日本史が苦手なのにまったく日本史に手をつけず、それなのに国語や英語を伸ばそうともしないで日々ふわふわと過ごしていた結果、センター試験で大失敗をかまし、それでもふわふわと一般試験を受けにいき、そこでもやっぱり落ちてしまいました。




小さなころから自分の欠点はわかっていたのです。
人と比べて圧倒的に「努力」することが苦手だということ。何かに「本気」になることがめったにないこと。
「本気を出したいモノが見つからないから努力しない」という言い訳を僕は何年も続けてきましたが、ついにそのツケがやってきたように思えます。
大学受験という大きなターニングポイントで「本気」を出して「努力」しなかったというのは、今後成功するしないにかかわらず僕の人生の大きな枷になってしまいました。



言うなれば僕は幼稚すぎるのです。他人と比べて自分のことを客観視できなさすぎる。将来に対しての不安感がなさすぎる。自分のことを有能だと思い込む…………。

きっとある程度は誰しもが持ち合わせているものなのだと思います。しかし多くの人はそれをとっくに棄て去り、新しい価値観とより大きな器、新たなプライドとも言えるモノを新たに手に入れるのでしょう。

僕はその流れに乗り遅れてしまいました。
時間を浪費し、嫌な未来から目を背け、自分自身に真摯に向き合う勇気がなかった。

だから今僕に巣食っている感情は「後悔」というより「呆れ」なのです。
「あぁ、この後におよんで俺はサボるのか…救えねえなぁ…」というもの。

問題は解決策が思い当たらないことです。
どんな解決策も自分次第だと思うと、どうやっても改善するとは思えなくなってしまいます。

一番最悪なのは改善しようとすら思わなくなることですが、今僕はその段階に達しようとしているので、こればっかりはどうにかしないとと思っています。


実はまだ1つ合格発表が残っているのですが、多分それも落ちていることだと思います。
センター試験で40点しか取れなかった日本史をセンター後まったく勉強していないので合格している方がおかしいレベルです。

もう浪人まで秒読み段階にある僕ですが、今後どう生活していくのか、とても不安です。
きっと今までのようにサボることは叶わないでしょう。我が家の空気もきっと今までとは違って重いモノになるでしょう。

僕ができるのは友人、先生、両親たちの期待に応えることのみです。
今まで18年間こういったことを言い続けてきましたが、今回はどうなるでしょうか。

できればまた来年にいい知らせを伝えられればいいなと思います。




別にしんみり終わらせたり、未来に期待しよう!とかそういうポジティブなことを書くつもりはなかったんだけど、ちょっとまとまりが酷くなりそうなのでこうなってしまいました。申し訳ない。

ぼーっとするよりも有益にならないだろう駄文を読んでいただき、ありがとうございました。

映画「<harmony/>(ハーモニー)」についての1人語り

f:id:Harimoshikun:20151116180516j:image
<harmony/>あらすじ
「21世紀初頭に発生した全世界規模の騒乱《大災禍(ザ・メイルストロム)》を経て高度な医療経済社会が築かれた21世紀後期。

人々は従来の政府に代わる統治機構《生府》の下、そこに参加する人々それ自身が公共のリソースとみなされ、社会のために健康・健全であれと願う世界に生きていた。

だかその健全で幸福な筈の社会を揺るがす重大な事件が発生、霧慧 トァンはその背後に自殺したはずの友人である御冷 ミァハの姿を見る。

監察官としてトァンは事件を追い、医療経済社会を可能とした技術の開発者である父ヌァザとミァハの真意を探る。」


原作を読んではいたんだけど、何せ数年前のことでほとんど記憶がなかったので(大方のストーリーは覚えてました)、全くの初見のような思いでとてもワクワクしてた。

映画を観終わって内容を整理しよーとか思っていところ、一つクッソでかい問題が発覚。
残念、なんとぼくはなかなかに頭が悪かったのだ!
それこそ冷静に作品を分析してここがこうだからなんて言うことは天地がひっくり返っても無理である。なのでここからは考察と言えるような考察は一切ないのであしからず。
*以下ネタバレを含みます


・声優とBGMについて
ほとんど悪くなかったように思う。
実は上田麗奈をここで初めて知ったんだけど、正直惚れた。最高です、アレ。
あとEGOISTのEDソングもよかった。
以上。


・内容
ほとんど原作の記憶がないぼくがまず思ったのは「お、なんかいい終わり方だな。幻想的だな。地球の映像が綺麗だな。御冷ミァハがかわいかったな。」だ。頭の悪さが滲み出ている。

そんなぼくが疑問に思ったのは最後にトァンが「あなただけはあの日のままでいて」と言って引き金を引くシーン。
「あの日」というのはまぁ学生時代のことだと思うけど、昔のミァハと今のミァハの違いがぼくにはわからなかった。
学生時代は世界を憎んでいたけれど、チェチェンにいたミァハは世界を好きになっていたから?それともハーモニープログラムによる意識の消失=自分の好きだったミァハの消失になるから?
どちらにせよトァンは学生時代のミァハが好きだったからそれを裏切られたくなくて銃で殺した?
ぼくの足りない脳みそじゃあそういう解釈しか出来ない。そしてもしそうだとしたら学生時代のトァンと螺旋観察員になった大人のトァンには、ミァハに対する共通の愛があったはずで、それにしては大人トァンのミァハへの愛に関する描写が少なすぎたんじゃないかなぁと思う。
それが要塞でミァハに会っていきなり銃をつきつけて(父親を殺された憎しみがあったのは確か)「あなたはあの日のままでいて!!!」とはさすがに困惑した。
そう考えると、ハーモニーはSF映画なんかじゃなくて、サイバーパンクな世界を舞台にしたトァンの独善的な愛を描いた物語でしかなかった。
別にぼくはそういう話が嫌いなわけじゃないし、むしろ好きだからあの結末にとやかく言うつもりはないけれど、ただ、そこに至るまでの動機付けが甘かったとは思う。まぁ物語の核心ではあるけどそれのせいで他全てが台無しになるほどひどくはなかった。


・まとめ
ハーモニーを観てから3日経った今でもまだハーモニーについて考えているあたり、この映画は良作な証拠だと思う。
それに観終わったあとに心地よい虚無感があった。それこそマブラヴ オルタネイティヴやWhite album2などの大作をクリアした後のような。(唐突なオタクネタ申し訳ない)

だから結果としては満足です。
Blu-rayが発売されたらきっと買うと思います。それほどぼくの心には残りました。
特に難解なわけではないし、ストーリーの根幹はレズのラブストーリーだし、そもそもノイタミナなのでアニオタにも親切だしでぼくはオススメします。みなさんもぜひ劇場へ。

ちゃんと考察が見たい方はぼくのページの読者になっていただければ、google等で「ハーモニー 感想」とググることで頭の良い方々のきちんとした考察が出てくると思います。
すいません冗談です。

ここまで読んでくださって有難うございます。それでは、また。